野津龍の著書「隠岐島の伝説」によると「時代は天平神護元年(765年)頃、 和気王が遠流の船親王・池田親王の召還を祈願したという理由で殺され、その和気王と親しかった石川永年は隠岐員外介された。この左遷は、事実上の遠流であって、彼は、船親王と同じ隠岐の島町の今津で配流の生活を送る」 |
天平宝字8年(764年)に船親王は隠岐の国に流され病を得て亡くなり、時の国司はその死を悼み、今津の地に葬ります |
後年、船新王の御霊を祀ったのが王子神社 |
船親王塚の前に塚神様の小祠 |
今津海岸線沿いの道路から海岸へ行けそうな場所を探そう! |
海岸へ降りれる階段が海に向かって左側にある。海に突き出た岩場が「阿婆の浮き橋」、あるいは「天の橋」という |
伝説によると、この「阿婆の浮き橋」は「永年が遠い都を望んで泣いているときに、たまたま一人の老婆が現れて、永年の焦慮を憐れみ、小石を海に投げ入れて造ったものです」老婆は間もなく飢えと疲れで死んでしまう。 |
伝説によれば「石川永年が来島した年は、隠岐でも大飢饉で食べるものが無いので、都に帰ることを決心します。そこで、彼は、船出の都合を考えて大きな洞穴の中に住みました」。その場所が「天の橋の穴」と証明された場所ではないが、島を脱出したかった、永年の気持ちになって探そう。 |
海岸を歩く事、約5分。ちょっと奥行があり、雨風を凌ぐ場所によさそうな洞穴、おそらく、これが「天の橋の穴」か? |
永年は遠く都を望んでは泣き、また思い直して船便を探し求めましたが、それもありませんでした。ついに彼は怒りと絶望のあげく、この丘の上で首をくくって死んでしまいます。後に、里人が永年の死を悼んで、南の海が見渡せる「堀ケ谷」に古墳を築き、その上に小さな祠を立てました。これが「国司塚」といわれる小祠です。今でも地元の人によって「国司塚」は守られています。(国司塚は管理上、立入制限されています) |
隠岐島の伝説 野津龍 著 |
西郷町誌(下) 西郷町誌編さん委員会 1976年出版に掲載されている遺跡図 このざっくりした遺跡図が冒険心をくすぐられた |